自未得度先度侘
自未得度先度侘
この言葉は道元禅師が”正法眼蔵”の”発菩提心”の巻で以下のように述べられています。
発心とは、はじめて自未得度 先度侘の心をおこすなり。これを初発菩提心といふ。この心をおこすよりのち、さらにそこばくの諸仏にあひたてまつり、供養したてまつるに、見仏聞法し、さらに菩提心をおこす、雪上加霜なり。衆生を利益すといふは、衆生をして自未得度先度侘のこころをおこさしむるなり。自未得度先度侘の心をおこせるちからによりて、われほとけにならんとおもふべからず。たとひほとけになるべき功徳熟して、円満すべしといふとも、なほめぐらして衆生の成仏得道に回向するなり。この心われにあらず、侘にあらず、きたるにあらずといへども、この発心よりのち、大地を挙すればみな黄金となり、大海を掻けばたちまち甘露となる。
道元は、人が発心する、菩提心を発す、ということは自未得度先度侘の心をおこすことだと言う。まず人を助けたい、まず人を幸せにしたいと願うことだという。そういう心をおこしたことによって大きな功徳が得られたら、それをさらに他人の幸せを願う方に向けてゆく。回向というのは方向をそちらに向けることなのである。
そういうことができるようになったら、大地は黄金になる、大海は甘露(アムリタ?不死のこと)となるのだという。
(「法華経」を読む 紀野 一義 著 より)